みなさん、こんにちは
今日は、軽視しないで観察調査!
という話を書きます。
同じ場面を二度と観察できない
観察調査は仮説検証不能という理由で
他の社会調査より格下に見られがちですが、
知りたいことを詳細に教えてくれる
「神は細部に宿る」的な直観は、
とても役に立つし、
社会科学としても間違っていない!
という見解を社会学者ブルーマーの本も
引用しながら訴えます。
そのコンテンツは、
ということで、
まずは、観察調査の実力を
再確認するところから話を始めます。
えらい鋭い!観察調査
眺めるだけの観察調査。
だけなんですが、凄いんです。
たとえば、
「カフェって、人々にとって
どんな所?」って、お題が出たとします。
それを調べるのに、
質問票調査(俗名、アンケート調査)を使うと
「70%の人が好きと答えた」
「週に1回利用する人は45%」は判りますが、
「好き?って、どんな気持ち?」は不明。
その隙間をインタビュー調査で埋めると、
「なんか落ち着く」「来ている人が素敵」な
コメントを聞けるので、心情を文字として
理解できるようになります。しかし…、
表情までは分からない。
どんな状況で、どんな気持ちになるのか?
その瞬間は分からない。
しかし観察調査なら知ることができます。
スターバックスにMacのPCを持ち込んで
仕事しているのか、なんなのか、
よく分からないけど、顔を見ると
どことなく自慢気な気配がプンプン。
これ、俗にいう「ドヤリング」ですけど、
こういう現実を知るには観察調査が最適。
みなさんも「ドヤリング」in スタバ、
観察しに行ってください。
いろんな「ドヤリング」顔を
確認できます。
にやけ顔、すまし顔。
なにかを覗き込む思案顔、
物思いに耽るアンニュイ顔。
「なにが君をそうさせるの?」と
尋ねたくなる恍惚(少し緊張)を
生(なま)で確認できます。
観察調査って、えらく鋭いのです。
👏🏾👏🏾👏🏾👏🏾👏🏾なので
『観察調査のすすめ』という
ガイドブックを書いちゃったほど。
(みなさんも、気軽に観察してみて!)
(観察事例も付いてます。ドヤリングはなし!)
そして神は細部に宿る
考えてみると、知りたいことって
小さな事実だったりします。
たとえば、
最初から持ち帰り狙いで、
大衆食堂の安い超大盛りメニューを
注文するリピーターっている?
こんな仔細な事実が起きている?を
知りたかったりします。
というのも、もし起きているなら、
人々の節約は、なりふり構わない(恥も
嘘も気にならない)レベルまで来ていて、
この先、もっと大変な事態が起こる
可能性があるからです。
こういう「点の事実」が、
未来の兆しだったりすることって
割とよくあります。
世の中の本当に凄い情報は
「神は細部に宿る」的に隠れているんです。
注)神は細部に宿る God is in the details は
「よく見ると、そこに啓示が!」的に
使われる表現です。→詳細は🔗を!
その「細部」に気づける観察調査。
これから、ますます重要になっていくと
思います。
世の中はますます多様に。
人々の交流は活性化し続け、
興味のある世界(サブカルチャー)は
どめどなく細かく分裂していく。
その中で起きる変化、強まる流れを
タイムリーに捉えるには「細部」が
欠かせなくなるからです。
でも、仮説検証には不向き
でも、冒頭に書いたように
観察調査って、
一部の学者から軽視されています。
理由は「科学的」じゃないから。
彼ら(軽視する人々)は
言うのです。
「人間社会には法則や真理があり、
それは不変だから、確かめる度に
繰り返し確認できるはずだ」
「繰り返し確認する作業を
(仮説検証と言います)
しなければ社会科学と呼べない」
「科学(=自然科学。例 物理学)を
手本とする社会科学は、
仮説検証をしなくてはいけない」
そして、同じ場面を観察できない
(=仮説検証に不向きな)
観察調査を小馬鹿にするんです。
「それ、科学的じゃない」
とか、なんとか言っちゃって。
でも、そういう姿勢って、
アメリカの社会学者
ハーバート・ブルーマーさんから
警告を受けています。
彼の言葉を少し引用します。
「前提、問題、データ、その関係、
解釈そして概念は、ほとんどいつでも、
所与として受け入れられ、経験的世界との
関連で直接の検証にかけられることは
ほとんどない。反対に、最近の方法論では
(中略)他の方法を重視している、この、
支持されて広く使用されている方法とは、
次のようなものである。
(a)科学的な標準的方法手続きprotocolを
採用する、
(b)調査研究の再試replicationを行う、
(c)仮説の検証testing of hypothesisにたよる、
(d)いわゆる操作的手続き
operational proceduresを採用する。」
(後藤将之訳『シンボリック相互作用論』
勁草書房、1991年版、p36より)
↑:社会や人間の研究は現実に適合している?が
重要。最近は、方法論として科学的手続きが
支持され、仮説の検証が何度もできる再試を
重視するけど…と書いてあります。続き、↓
「社会科学および心理学には、
広く受け入れられ、深く根づいた信念がある。
すなわち、適切な標準的調査手続きとして
共通に受容された方法は、経験的世界に対して
妥当する結果を、自動的に産出するものだ、
という信念である。こうした標準的手続きは、
学生に対して調査のモデルとして示されるし、
調査研究の評価にあたって、研究者や編集者
(注:学術誌の編集者を指すと思われる。
矢嶋による加筆)が一般的に使用している。」
(同書p37より)
↑:科学的で標準的な手続きが真実を明らかにする。
この思い込みが、調査結果=現実という安直な
考えを広める…と書いてあります。続き、↓
「科学的な標準的手続きを採用すること、
再試をおこなうこと、仮説の検証、
そして操作的手続きの使用は、
真正の経験的社会科学が要求する
経験的な適切性を与えるものではない。
それらは、前提、問題、データ、その関係、
概念、そして解釈が経験的に適切である
という、どんな保証も与えないのである。
ごく簡単にいえば、この保証を手に入れる
ためのただひとつの方法は、経験的社会的
世界に直接行ってみることである。
(中略)研究されている経験的領域が、
実際に、その研究者が持つそれについての
背後的イメージに対応しているかを
確認しようとする勤勉な努力は、
ほとんどみられない。」
(同書p41より)
↑:標準的手続きに従っていれば…は危険。
結果はこうなったけど実際はどう?を
現場に確認しに行かないとダメ。
でもしないんだよね。しないと、
(社会科学や心理学の研究って)
机上の空論、世間知らずになるよ
…と書いてあります。
ちょっと専門的なクドクド文章でしたけど、
ポイント、わかりました?
「科学、科学って言うけれど、
現実知りたきゃ、現場に行きなよ」
「行って、研究の結果が
本当かどうか確かめてごらんよ」
こう言っているのです。
その確認に、
ブルーマーさんおすすめの
「経験的社会的世界に直接行ってみる」に
観察調査はピッタリなんですけど、
一部の学者から、なぜか不思議と
軽視されています。
学生に
「観察調査はするな!」と
指導する人もいます。
で、その態度を真に受けちゃう人が
「観察調査なんて👎🏾」な食わず嫌いに
なってしまうのです。
先人いわく、
百聞は一見に如かず。
世の現実って現場に行ってみないと、
わかるはずないのですが…。
使うも、無視も、あなた次第
観察調査、どうなるんでしょうね?
成果は明らか。知りたい事は多く、
方法は難しくない。
軽視する人は一定数いるでしょうけど、
仮説検証のための観察調査じゃないんだから
学問以外で盛んになるかもしれませんね。
すでに兆し(「細部」?)は見えていて、
優れた社会の描き手は、
学問から、ドキュメンタリー、
ノンフィクション・リポート、
小説、ドラマ、映画へ移っています。
例 マイケル・ムーアさん
『シッコ SiCKO』(映画)
堤未果さん
『ルポ 貧困大国アメリカ』(新書)
ジェシカ・ブルーダーさん
『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』(小説)
その映画化『ノマドランド』
(クロエ・ジャオ監督)
最後に、観察調査の弱点を教えます。
「細部」に気づけるかどうかは
人に依ります。
Aさんは気づけても、Bさんは気づけない。
(cf.マーケティングの知見メモ、
「消費者調査はスタッフ次第」)
観察者と分析者を分離できない
宿命を観察調査は背負っています。
観察調査にチャレンジするなら、
気づける人になってください。
人に頼むなら、
気づける人を使ってください。
あなたの前に
「細部」が現れますように!
矢嶋 剛